「カリフォルニア アカデミー オブ サイエンス に行こう。」

 サンフランシスコの地図を広げると、真ん中、左半分にあって、横に長く大きく広がる緑が目に入る。
 ゴールデンゲートパークだ。南北800m、東西5km。
 ゴールデンゲートパークは公園というより、まるで大きな森だ。
 2、30mはありそうな高いユーカリの木々がうっそうと茂り、森の中を小川が流れ、小滝があり、池がいくつもあり、リスが走り。これがとても人工に作られた公園とは思えない。
 「東西長さ約5kmもの規模を誇るゴールデンゲートパークは世界で最も大きな人工公園の一つ。公園化が決定した1870年以前は荒涼とした砂地だったが、総監督のウイリアムハモンドホールや、植木職人のジョンマクラーレンらが世界中から集めてきた樹木や花々を植えて緑化に成功。1894年にはここで国際博覧会が開催された。」とガイドブックにある。

 カリフォルニア アカデミー オブ サイエンス はこの公園の森の中にある総合博物館だ。旅行のたびにそれまでも何度か来たように思うが、僕にとってもっとも記憶に残っているのは1988年の時のことだった。
 印刷校正のためにサンフランシスコの印刷工場へ来て、その間のあいた時間にふと立ち寄った。あの時ふらりとこの博物館に立ち寄ることがなければ、僕の人生は確実に違ったものになっただろうと思う。
 1988年のメモ帳を今取り出して見ると、その時のことは簡単なスケッチと共に、次のように書いている。
「水槽の中に水の流れ。」
「NAMAZUは日本語。」
「館内に巨大な岩。」
「ペンギンの水槽の中でえさを与える飼育員のまなざし、表情が非常に印象的。」
「バックの絵が非常に丹念に描かれていてリアル(遠景の感じ)。」               

  この博物館:カリフォルニア アカデミー オブ サイエンスは、自然科学博物館と水族館とプラネタリウムとが一つになった、子供達が見ても充分楽しめるよう工夫された自然科学博物館だ。
  今では珍しくなくなったが、このような「楽しめる博物館」という概念が生まれるまでは、博物館と言えば、化石やはく製やミイラがほこりをかぶったような暗いところ、のイメージが大きかった。そのイメージをこのサンフランシスコの博物館は180度変えた。博物館とはいきいきと動きがあって、イメージをふくらましてくれて、そしてとても楽しいところというように。

  メモにある「水槽の中に水の流れ」とあるのは、上流から下流までの川の流れを縦にズバリと切り取って、その川の中を真横から見るようになっている展示のことだ。
  画面いっぱいに広がるガラス板を隔てて水槽の中は、岩や流木、水草や苔を伝って水が激しく流れ落ちる渓流の世界になっている。
  この川の流れにそって、源流に棲む魚から中流に棲む魚、最後には下流に棲む魚と、一本の同じ川の流れの中に魚の種類と自然の棲息環境とが再現されて、ひと目で分かるようになっている。
  まるで水しぶきが飛んできそうな、涼やかで冒険心あふれる川の中の再現に子供達も皆、目を輝かせて展示に見入っている。

  「バックの絵が、非常に丹念に描かれていてリアル。」とメモに書いたのは、そのような「ジオラマ」と呼ばれる立体展示の中でももっとも印象に残ったものだった。
  テーマはいろいろあるのだが、まず「ロッキーの冬」と題されたウインドーの中は、
  一面の銀世界。ロッキーの山の雪景色をそのまま切り取って持って来たような設定になっている。 一面の厚く積もった雪面は薄日をうけて、本物の雪のようにキラキラと光っている。
  雪の中に大きくそびえ立つ大木と、その横には足を半分ほど雪に埋めた2頭のシカがたたずんでいる。どちらも実物そのままだ。一頭は、樹の根元にえさの芽を探すように。もう一頭は今遠くの気配に気付いて、ハッと首を上げたところ。画面 はまさに、その一瞬の静けさを切り取っている。
 またその雪の斜面が落ちて、谷の向こう遥か遠くには、うっすらと蒼く霞んだようにロッキーの山並が広がっている。
  この背景の絵がまた実に見事に描かれていて、手前の雪原からバックの山や空へかけての絵と模型の境目がいくら目を凝らしてもわからない。全体がまさに「ロッキーの冬」そのものだった。

  「カリフォルニア湾」と題されたものは、カリフォルニア湾の薄暗い海の中を、アシカ達が何匹もくるくる飛ぶように泳いでいて、そのいきいきとした自然風景の光景が、一瞬時間をとめたかのようになっている。
  見ている観客は、自分も海の中にいるような錯覚に陥る。
  背の高いケルプ(コンブ類)の林の中を自由自在に泳ぎながら、くるりと身体をひるがえしたその瞬間、一頭のアシカの口元からは、かすかに空気の泡が出て後ろに流れているように見える。よおく目を凝らして見ても、実際にそれがどんな方法で浮いて着いているのかわからない。暗く青いカリフォルニアの海は、壁の奥に向かってどこまでもどこまでも深く深く続いているかようだ。

 大自然の風景を切り取る。再現する。それはまるで夢の中の世界を実現させたような展示だった。 実際「ロッキーの冬」のジオラマの前に立って雪原を見渡していると、本当に山の中に迷いこんでしまったようで冷気すら感じる。
 近くにクーラーの吹出し口でもあるのではないかと、ガラスケースの周辺を見回したほどであった。カリフォルニア アカデミー オブ サイエンス の、この愉快で壮大なジオラマ展示に接して、魅せられたことは、僕に大きな変化を与えた。「ここに来なければならない」と思ってしまったからだ。
 「これこそ、僕のやりたい世界だ。」帰国するとさっそく準備にかかった。  会社を退職し、家族と共にサンフランシスコに来る。その間、半年とかからなかった。



                 「貼り紙を見つける。」

 1989年12月。サンフランシスコに来てから、半年がたとうとしていた。この間に大きな地震があった。その地震のことを少しのべよう。

  僕は近くの郵便局で日本宛ての郵便物を出した後で、ちょうど表の通りに出たところだった。
  その時、なんとも言えない無気味な石のきしむような音がして、一瞬空が暗くなった。
  空が暗くなったのは、鳥がいっせいに飛び立ったからだった。体が前後によろめいた。
  僕のまわりでは、車やバスが音をたてて止まり始めた。
  歩道を行く人達も、地面に手をつき不安げに空を見上げている。
  ようやく、めまいでも二日酔いでもなく、これは地震が起こったのだとわかった。
  パニック映画の中に舞い込んでしまったと確信した。

  その時の地震で、サンフランシスコと対岸のオークランドを結ぶベイブリッジ橋がつぶれた。
  2層になった橋の上段部が崩れ落ち、下橋を通行中の何台もの車が下敷きになった。60人近くが亡くなった。
  地震発生は、夕刻5時04分だった。
  ベイブリッジは普段のこの時間帯だと、帰宅を急ぐ車の長蛇の列で、おそらく何百という車が橋を通 っていただろうと考えられる。その時橋が落ちたとなると、実はとてもこの程度の被害ではすまなかっただろうという。では何が幸いしたのか?

 この’89年はサンフランシスコにとってスポーツの当たり年だった。アメリカンフットボールでは、ジョー・モンタナのサンフランシスコ49'Sが優勝した。
  大リーグのナショナルリーグでは、サンフランシスコ・ジャイアンツが優勝し、アメリカンリーグでは対岸の町、オークランド・アスレテイックスが優勝した。
  そして、この10月17日、どちらが全米一か、を決するワールドシリーズの3戦目がサンフランシスコ球場で、今まさに行われようとしていたのだ。
 湾をはさんだ対岸同士の対決だったので、これこそ湾岸戦といわれた。
 球場には超満員の観客。
 試合開始を前に、ダイヤモンドの上で選手が並び、両チームのラインナップが今まさに紹介されようとしていたちょうどその時に地震 が襲ったのだ。ベイブリッジに大打撃を与えた地震(Loma Prieta 地震)だったけれど、幸いその日行われるこの世紀の対決を、家でゆっくりTV観戦しようといつもより早めに帰宅していた人が多かった。
  だから被害は最小限ですんだということなのだ。
  サンフランシスコ湾をはさんだ橋と野球と地震の物語りだ。

 この年は、野球と地震とだけでなく、世界的にもいろんなことが起こった。
 アメリカは湾岸戦争に突入し、ベルリンの壁は崩壊し、ソビエトまでがなくなってしまった。
 僕の部屋の窓際に置かれたラジオは、連日このようなニュースを伝えていた。といっても、その内容の、わずか1/10も聴き取ることはできなかったが。
 アメリカに来て半年がたっていたが、英語の方はいっこうに上達していなかった。
 それでも、午前中はコミュニティーカレッジでESL:English as Second Languageのクラスで英語を勉強し、午後はフリーランスデザイナーとしてデザイン事務所をまわるという日が続いていた。  あんなにあこがれてきたカリフォルニア アカデミー オブ サイエンス だったが、週に1,2度、普通 の観光客のひとりとして中を見て回ることぐらいしか僕にできることはなかった。
 どうしてよいか分からないまま、月日だけがむなしくたっていくといった感じだった。

 そんなクリスマスも近いある夕方だったと思う。
 日は暮れ、街にきれいなイルミネーションが点る頃だった。
 なんとなく、家にいたたまれなくなって車に乗ると、いつものアカデミーへでかけた。
 アカデミーでは週に一日、9時まで開館が延長される日がある。そしてその日は入場が無料なのだ。見慣れた展示室を、次から次へ足にまかせて歩いた。アフリカの自然から、プラネタリウムのある天体コーナー。水族館から民族学の展示へ。そしてカリフォルニアの自然へ。
 もうどこになにがあるかは、広い館内だけれどすでに頭の中に入っていた。

 あれはたしか鳥の標本展示のコーナーだったと思う。
 部屋いっぱいに鳥のはく製が、まるで皆生きているかのように羽を広げて展示してある鳥類学コーナーのすみの方。
 いつもは、なにげなく通りすぎる通路の壁に、ふと今までは気のつかなかったドアがひとつあることに気づいた。
 ドアは半分開いていて、そのドアの上にコピー紙が一枚貼ってあったので、それとわかったのだ。近寄って、その貼り紙を見てみた。
 そのはりがみには、次のような内容が書かれてあった。「ボランティアを求めます。
 新しい展示(“Life Through Time ”という)が計画されています。そのための制作スタッフを求めています。
 ボランティアになれば、アカデミースタッフと楽しい交流がもて、かつアカデミーストアでの買い物が10%引きとなります。」という内容だった。ドアの中をのぞくと、チェックのシャツに、サロペットのジーンズ、パイプを口にくわえた絵に描いたようなクラフトマンが、他のメンバーとなにやら楽しそうに作業しているのが見えた。模型に色を付けているようだった。
 ようやくこの夜、アカデミーへ入るためのドアが、ぽっかりと僕の前に開いてくれたかのように思えた。


                  「壁画を描く。」

 まずはアカデミーへの思いをせつせつと手紙に書くことにした。履歴書は嫁さんにタイプで打ってもらった。(このタイプライターは、郊外のフレアマーケットで安く買った、いわゆるアンティック。)
 これをデザイン作品のアルバムに添えて梱包し、郵便でアカデミーのボランティア事務局に送った。
 どきどきしながら返事を待った。
 アカデミーより、面接に来てくれるようにとの電話があったのは、それからまもなくのことだった。
 自分から行動すれば、変化はかならずあるんだということが嬉しかった。
 もちろんこのアカデミーにかぎらずアメリカでは、僕の訪ねた多くのデザイン事務所と同じように、自分の作品を持って自分を売り込んでゆくということは皆んながやっていることだ。
 それによっていつも人が職場を流動的にかつダイナミックに動いている。
 日本では考えられないような、大椅子取りゲームが毎日休むことなく続けられているって感じなのだ。

 アカデミーの広い入り口を入り、受け付けで約束を告げるとボランティア事務局への道順を教えてくれた。
 ボランティア事務局のミスヘニング夫人は黒いドレスに、見るからにおおらかな典型的なアメリカ女性で、にこやかな表情で僕を迎えてくれた。
 どうやら手紙を通して、僕の思いは充分に伝わっているようだった。
 次に彼女に紹介されたリンダ・ク-リックは、まるで男のような風貌で(最初は男だと思った。)くりくりした銀髪と銀縁の眼鏡、ざっくりしたセーターにジーパンが印象的な人だった。
 決して愛想がいいとは言えなかった。その名前からして東欧系の人らしかったが、それはちょっとした表情の翳りからも分かるような気がした。
 この眉をひそめて深刻そうにする表情と、早口で全く理解不可能な話し方は、最後まで僕を戸惑わせたけれど、彼女こそ僕の創作の良き理解者だったと今でも思う。
 しかしこの時は総監督として指示に忙しくて、ボランティアの僕ひとりには、かまっていられないといった感じだった。

  二つ仕事があって、どちらをやるかと問われたので、それぞれの仕事場へ連れて行ってくれるように頼んだ。
  ひとつはグラフィックデザインの部屋だった。  
  部屋の中ではポニーテイルのデザイナーが、Macに向かってロゴを制作中だった。ディスプレイ画面 には、アンモナイトの絵がレイアウトされていた。
  どうやら新展示“Life Through Time”のロゴになるもののようだった。これをTシャツやほかのノベルティ-に展開するのだという。
  「どうだ?」と聞かれたが、人当たりの柔らかいこの典型的なサンフランシスコ人間と仕事をやるのもよいが、このタイプの仕事はもう卒業したかな、と思い断ることにした。

  リンダはもうひとつの仕事場に連れて行った。
  そこは騒然とした作業現場だった。
  新展示室“Life Through Time”の工事が行われていた。
  足場が組まれて、ペンキだらけの壁面には大きなくじらや恐竜が描かれようとしていた。
  作業員が何人も壁面に向かっていた。
  足場をぬうように展示室を歩いて、一番奥まで来るとリンダはあれだというような表情でひとつの壁を示した。
  壁面にはすでに何頭か、頭を左右に振りながらこちらに向かって来る小型恐竜の姿が描かれつつあった。
  壁の下半分、地面の部分だけが白く壁の地肌のまま残されていた。
  この森の地面を描くというのがふたつ目の仕事だった。
  よし、これをやろう。リンダを振り返ると、僕はこの森の地面を描きたいと申し出た。

  次の日から、作業を開始した。
  はじめにまず与えられたのは、古代の大きなツクシの模型だった。樹脂で本物そっくりにできていて、色が付けてあった。長さは50cmほどもあった。
  森の地面に針葉樹の葉が積もり、その間から巨大なツクシがにょきにょきはえているという想定にしたいという。
  最初に下絵があるわけでもなく、壁面を担当する何人かの画家が部分部分を分け合って、思い通 りあくまで自分の想像を働かせながら描くのだ。
  森の中はきっと全くの平たんではないだろうから、やや地面に隆起をもたせ、それで奥行きを感じさせるようにしようと全体の構図を考える。そしてその上にコンテでツクシの当たりを何本も描いていく。ツクシ模型はこのための参考にする。
  べつに難しい作画でもなかったので、すぐにさっと描けた。

しかし、次の日に行ったらきれいに消されていた。恐竜の歩くような森であれば、ツクシの頭の取れたものや、折れたものなどがあって、もっと自然な変化があるはずだというのである。
  なるほど、そういえばそうだと納得した。もうちょっと真剣に考えよう。
  こうして多くの作業員に混じって連日ツクシと落ち葉の地面を描くことで、憧れのアカデミーでの日々がはじまった。
  だんだんと描くエリアが広がって行く。
  森の木漏れ日がきらきら地面に落ちて、明るい光りのモザイクを作っている様に描きたいところがある。しかし描き方が難しい。
  表現に悩んでいると、壁の上段部で恐竜を担当している老画家が降りてきて、外に出て見てくるようにとアドバイスをくれた。実際の森の様子を見てこいというわけである。
  足場にはりめぐらされたペンキよけのシートをかきわけるようにして裏口を出ると、眩しいような緑の光景に包まれた。ゴールデンゲートパークの大きな背の高い木々が、目の前いっぱいにそびえている。
  うっそうとした枝葉を透かすようにした日の光が深い陰影を作っていた。涼やかな森の空気が気持ちよかった。樹の香りを胸いっぱい吸い込んだ。
  無意識のうちに作業場で、息をつめたようになっていた自分に気付いた。
  しばらくこの風景にひたってイメージを頭に入れると作業場にもどって描く。
  そしてイメージが消えると、また外に出る。そういうことを何度もくり返した。

  一ヶ月ほどで壁画は出来上がり、新展示の“Life Through Time”も半年ほどで完成した。
  恐竜の壁画と、もちろん僕の描いた森のツクシは今も、アカデミーの“Life Through Time”の展示室に健在だ。



                「ボイジャーからの映像」

  壁画の制作の後も、もちろんぼくは毎日、アカデミーでのボランティアを続けた。
  リンダ・ク-リックは次々と、僕に仕事の指示を与えてくれた。リンダの早口な英語にはあいかわらずついていけなかったが、不思議に雰囲気で内容を理解するコツはつかむことができるようになっていた。
  言葉はできないのに内容だけはちゃんと分かっている、というこの一種の特殊能力については僕以上に、ほかの皆んなが不思議がり面 白がった。
  こうして次第にアカデミースタッフとも親しくなって行った。
  この博物館の仕組みもなんとなくだが、わかるようになってきた。

  展示場での飾り付けなど現場作業以外は、おもな仕事場は博物館の地下にあるデザインルームだった。
  アカデミーで必要とされる展示作業や印刷は、ほとんど自分達でやるのがふつうだったから、木工作業場も印刷室もすべてその地下にそろっていた。
  雑然とはしていたが、雰囲気はとてもアットホームだった。
  よくパーティーもあった。
  博物館の科学者やスタッフ総出の地震パーテイーまであったのには驚いた。
  皆んなそろいの緊急用のヘルメットをかぶり、地震のビデオが流れる展示室で“Happy Earthquake!”と乾杯した。なにがハッピーなのか解らない。
  意味やや不明ではあったけれど、そんな難しいことにはこだわらない。
  とにかく地震に負けず、皆んな元気でがんばろう、というようなことであった。

  僕にもちゃんと個室と仕事机が与えられて、給料ももらえるようになった。
  学術的なまじめな雰囲気の仕事の多いデザインルームの中にあって、僕の部屋の中だけが特殊だった。とにかくカラフルだった。色紙が散乱していた。
  よく面白がってリンダが、ほかの部署から見学者をひっぱってきては、紹介してくれたりした。
  この頃のアカデミーでの日々を象徴しているのがボイジャーからの映像だったと思う。
  これはプラネタリウムなどもある宇宙や天文のコーナーで、常に流されていたビデオ映像だった。 ボイジャーは1977年にNASAによって打ち上げられた星間探査衛星だ。
  火星、木星、土星と順々に太陽系惑星のまわりを周りながら、撮影した映像を地球に送り続けた。

  1989年には一番最後の海王星までたどり着いてしまい、これを回って探査したあとは、それを最後に太陽系を出て銀河の彼方に消えて行った。
  もう地球にデータを送ってくることもないが、今も銀河の旅をつづけている。
  その惑星の映像が、アカデミーで流されていたのだった。
  とくに、土星の姿が印象的だった。

  大理石のように細かい筋のはしる土星の輪も、太陽光の角度によっては球状の土星の表面 に濃い影を映していて、そのくっきりとしたシャープな線が美しかった。
  デザインルームでは最後まで残って仕事をしていることも多かった。
  とくに週末前の午後には、皆んなあっという間に帰ってしまい、最後に鍵を閉めて帰るということも何度かあった。
  デザインルームのある地下からは階段をのぼって一階の展示室に上がる。この階段は展示室の壁の一角にある隠し扉につながっている。
  この隠し扉を自分の鍵で出入りできる。これがアカデミースタッフの特権だ。

  普段は遠足の子供達や見学客でワンワンと響き渡るように賑わっている展示室も、仕事が終わって帰る頃は、閉館の後でシンと静まり返っている。
  この静かな展示室を通りながら、裏通りに面したスタッフの専用口へ向かう。この帰り道がちょっとした楽しみだ。
  途中、水族館やプラネタリウム館を通りぬけて行く。  水族館では、照明の落ちた暗い水槽の中を、巨大な草魚がゆっくり音もなく過ぎていく。
  プラネタリウム館の中では、目の前を巨大な土星がゴーゴーと、回転するようにしながら宇宙の彼方に飛び去って行くのだった。
  この時の「博物館の帰り道」があんまり印象的だったので、家に帰って何度か絵に描いた。
  その時描いた土星が、今は“ Nobu Design ” ロゴになっている。



              「Dino Fest '91のロゴを作る。」

 DinoFest' 91 は、ちょうどその頃、依頼された仕事のひとつだ。
 アカデミーのエントランス空間が、ガラス貼りの大きな吹き抜けとなって改装される。
 そのリニュアルにタイミングを合わせて、エントランス広場全体で恐竜展をやろうというものだった。
  原寸大の恐竜は実際に、動いたり鳴いたりもする。これは日本のメーカーの制作によるものだという。
  僕には全体の展示プランとロゴを考えてほしいとのこと。これには博物学的なイメージと、お祭り的なイメージの両方がいると思った。つまり、真面 目と遊び。ふたつの要素を両方とも満たさないといけない。僕の出したプランは次のようだった。

 「エントランスの広場全体をごつごつとした岩山にする。
  照明を効果的に使って、恐竜のシルエットを岩壁に投影する。
  見学客には橋や洞くつや岩と岩の間を恐る恐る、冒険するように歩いてもらおう。
  説明やキャプションは岩の中にとり付ける。」というようなものだった。

  このためには、巨大なアナトリウムのようなガラス貼りエントランス全体を幕で覆う必要があった。それは実際上不可能だったし、岩などの造作の規模も大きすぎて予算がかかりすぎるということで、展示の方は結局うまくいかなかった。
  しかしロゴの方はうまくいった。

  僕は恐竜の背中に立っている、あの山形の背ビレに注目した。
  これが恐竜のフォルムの特徴ではないかと思えた。そこでこの背ビレだけを何枚もテーマに、絵に描いてみた。
  色やかたちを変えたものを、筆でペタペタ描いては仕事部屋の壁に次々と貼ってみた。眺めていると、目のつけどころは当っていそうに思えたが、どうも抽象が過ぎるようであった.

  恐竜であるか、どうかがわからない。
  しかしこの時点で、およその色のイメージはつかめた。
  恐竜の躍動感を出すにはやはり、グリーンと赤土色の、強いコントラストがよい。

  そこで次は少し手を変えて、色紙を使ってやってみることにする。
  紙をギザギザと背ビレ形に切って、今度はついでに頭と足もちょこっと付けてみる。するとなんと、途端にシルエットが恐竜らしくなってくるではないか。
  これだ、と思う。しかしあまりリアルになっても面白くない。
  でも、どうやら方向はこっちの方にありそうだと、大きくしたり小さくしたり、いろいろ形を変えて作ってみる。
  このように自問自答しながらもすこしづつ方向が見えてくると、気持ちも楽になってくるし、面 白い。あとは時間の問題だ。

  ベースはグリーン。これには間違いない。
  このグリーンベースの上に、ようやくフォルムが決まってきた赤土色の恐竜を置いてみる。
  しかしこれだけではやっぱり、ひと味たりない。なんだろう。
 グリーンとイエローの組み合わせも考えてみる必要があるのか。
  同じフォルムで黄色い恐竜を切ってグリーンベースの上に置いてみる。
  ウーン、やっぱり黄色いでは弱い。
  そこで、その黄色い恐竜の上にもう一度を赤土色恐竜を置く。
  これではさっきと同じだと、投げ出そうとしたその瞬間、わずかに左にずれた赤土恐竜の背後からパッと黄色く輝くような光が現われた。下に置いてあったイエローが偶然、うしろから照明のように顔を出したのだ。
  今まで小さく固まって動かなかった恐竜が、ひと声大きく「ウオーッ」と叫んだように思えた。

  創作という仕事は、ときおり訪れる「やったー」というこころの中の小躍りするような瞬間を、根気よく次々つなげて行って、形にするようなものかもしれないと思う。
  これはちょっとおおげさな表現だが、「EUREKA」と叫んで風呂場を飛び出したアルキメデス的発見とよく似ている。自分だけの表現を見つけ出すという点では。
  今回のぼくの場合は「恐竜のシルエットを岩壁に投影する」というあの展示案のイメージが先にあって、展示では実現はしなかったけれど、そのこころの奥に隠れていたイメージが少しづつ平面 表現にもヒントを与えて続けてくれたのだろうと思う。
  試行錯誤しながら作っていく。苦しくもあり、楽しい創作世界だ。

  こうしてDino Fest '91のロゴは、古生代をよみがえらせる光りと影のイメージをつかんだことで、一瞬にして完成した。


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