「まちなみ」をアートする。

『まちなみ』2005年6月号 大阪建築士事務所協会発行


   6. FMで会った人たちと作る「まちなみ」。

『日曜午後の遊び時間』をデザインする。  

 『日曜午後の遊び時間 アート・イン京都』というFM番組のパーソナリティーを始めて一年になった。2週間に一回、30分の番組で毎回アーティストや博物館の学芸員をスタジオに迎えて作品や展覧会の様子を紹介する番組である。日曜の午後のゆったりとした時間にふらりとギャラリーを訪れた僕が作家と話すトークの内容を、リスナーが明るい庭先でハーブティーでも入れながら聴いてくれているというような想定で放送している。毎回ゲストが変わり、内容もアートとは言いながらも様々な領域に至っているので、放送局が町の真ん中のカフェにあることもあって、まるで番組そのものが目の前を移り変わる「まちなみ」のようだと思っている。僕は仮想の「まちなみ」をデザインしているのだ。  

 たとえば『パリ/マルモッタン美術館展』では、文化記者の中井さんとふたりで町の美術館に入って一枚一枚絵をたどるようにしてモネやモリゾの作品を紹介した。明るい外の光に魅了され外の光に包まれながら絵を描きつづけた印象派の画家たちの制作の風景を紹介しながら、はつらつとした夏の空気に満たされた瑞々しいジュベルニーの庭と『睡蓮』の絵を想った。モネにとっては、庭が先だったのか絵が先だったのかと語り合った。また『由緒正しき京都の風景―京都極楽銭湯案内』という本を書いた著者の林さんとは、町のお風呂屋さんの文化を紹介しながら京都にのこる風情やそぞろ歩きの楽しさを伝えた。京都にはまだ200軒近いお風呂屋さんが今もいきいき活動しているという。その懐かしい建物の佇まいや様々に工夫を凝らしているアイデア風呂の様子を話しながら、しかし彼のメッセージが実はお風呂屋さんという特殊な一軒にあるのではなく、それと共にある町並みの情緒や途中の商店街やそぞろ歩きの楽しさにあることを知りそれを伝えたかった。そのような見方こそがアートなのである。桜の美しい頃、桜に関連した話題を伝えたいと京都洛北のひっそりとした古い町並みにある御菓子処『宝泉』を訪ねた。この店の内装や調理場や庭を見渡す茶室空間が透き通るように透明感があって美しい。桜餅など京都の伝統的な和菓子と手作りのパッケージに関わる若い女性たちの姿を紹介しながら、お茶もお菓子も包装も庭も分けて考えるものではなく一体化したものであり、伝統から新しい芽が生まれてつながっていく瞬間は、このような柔らかく外に向って開かれ一体化された環境の中にあるのではないかと語った。  

 このように毎回ちがった話題をまるで目の前を移り過ぎて行く美しい風景のように紹介しながら、「まちなみ」散歩を一番楽しんでいるのは僕自身だが、その僕自身から見て変化の中にも決まった一本の共通テーマがあるとすれば、それは僕とプロデューサーが共に頭に描いている「絵『日曜午後の遊び時間』」ではないかと思っている。この絵のイメージがゲストを選び、話題を決める。前もってゲストと打ち合わせらしい打ち合わせをするわけではなく、ほんとうに軽ーい気分だけでトークに入る。この軽ーい気分というのが大切で、それがこの「絵『日曜午後の遊び時間』」の主題だ。例えば『近世狩野派展』という展覧会の紹介では、実際に会場で「狩野派」のスケールのある作品を見たすぐ後にスタジオに入ったので「ふと目をあげるとそこに巨大な龍の目があった」とその場で感じた空気がそのまま声になった。考えてみると軽ーい気分や気持ちとは、作り過ぎないこと、その場の印象が伝わりやすい「スケッチのようなもの」と言えるのかもしれない。ゲストは大体においてその道の専門なので、聞き方次第でどのようなエピソードでもどのような形でも話してもらうことは可能だ。その時「このようなことを、このような雰囲気で話したい」と話の流れを、その場その場の気持ち次第で自由に作っていくのもパーソナリティーの役割りである。伝えたい世界、作りたいイメージ、好奇心。聞き手の代表である僕自身の思い込みこそが『日曜午後の遊び時間』を美しい「まちなみ」にしていくのだと自負している。  

 曲も大切で、まず毎回決まった「オープニング・テーマ曲」を流し、それがスタジオに流れ始めるといつものように『日曜午後――』の時間がやって来たと実感できる仕組みになっている。音楽は樹や風のようなもので「まちなみ」デザインには欠かせない大切な要素だ。話しの合間にも2曲紹介する。ゲストが持って来てくれることもあれば、前もって僕が用意することもある。『古代エジプト文明3000年の世界展』紹介の時は、担当学芸員がエジプトで手に入れた音楽を持って来てくれた。古代エジプト人の死生観によると、死んでから行きたい世界もやはり今と同じ世界なのだそうである。つまりあの世に行っても今と同じように皆んなと一緒に仲良く麦畑を耕しナイルと共に生活して行きたい。それが古代エジプト人の願いであり生き方であった。3000年の時間の旅の話を川面を流れるようなアシ笛と太鼓の音色と共に語ってもらいながら、悠々と流れるナイルの向こうに黒くシルエットになったピラミッドの姿がリスナーのこころにも浮かんでくれればと願った。歌手を迎えて『京都・花灯路(とうろ)』という「灯りのイベント」を紹介した時には、彼女の歌うテーマ曲の詞がそのまま会場である東山の観光名所を結んだパスの形になっていた。曲と共にその「灯りのパス」に沿って歩くようにして夕暮れの「まちなみ」をデザインした。映画『ビート・キッズ』を紹介した時は、その映画監督の話し方が映画の中で高校生たちの演奏するテーマ曲とテンポが合っていて賑やかな「まちなみ」となった。彼等が活躍する岸和田という町もビートの効いた祭りで有名な町ということであった。スウェーデンのグラフィック・デザイナー、Markus Mostromを迎えた時は、彼の展覧会の内容が「着物」であり「日本や世界を越えてクロスオーバーするデザイン」というイメージであったこともあり、用意してくれたCDもスウェーデンのアーティストに混じって日本人が歌う無国籍で不思議な近未来感を感じさせてくれる曲だった。新しいコミュニケーションの芽が生まれつつある気配をスタジオの中に感じさせた。  

 こうしてFMで会った人たちを次々振り返りながら彼等からとの話しを総合して、では僕が番組で伝えたい世界、作りたいイメージとは何だったのかと言うと、それは「世界はこんなに広く美しい」ということだったのでないかと思う。夢があって開放的で美しい。『白隠・禅と書画展』では白隠の描くゴビ砂漠の空をさっそうと駆けて行く達磨大師の壮大なイメージが伝わってくれればよいと思った。白隠禅師の書画は自分の思想を民衆にやさしく伝えるために白隠がその場で描いてさっと渡したもの。農家のたんすの中からなにげなく出てきたりするのが白隠禅師の書画の特徴なのだそうである。その壮大さと軽さがよいではないか。『大西清右衛門美術館展』では、16代 釜師大西清右衛門さんを迎え「お茶の世界」に見られるスケールのある「遊び心」について話してもらった。例えば茶釜を浜辺の塩屋に見立てた『塩屋釜』という17世紀ころの釜があるという。表面は砂肌で貝と青海波の地文を施し、小屋の形の「塩屋」形の鐶付が付いている。湯が沸くとその小屋の軒下の小さな穴から湯煙が出る仕掛けになっている。茶釜の白い湯気を、海水を煮て塩を作る「塩屋」の煙に見立てているのだ。小さな茶室空間にあっても海辺の絵のような世界が「遊び心」を感じさせ、心を限り無く広げてくれるのである。『深草団扇』の復活に取り組んでいる小丸屋住井家10代目の住井啓子さんとは「祇園祭り」の町並みを歩くようにして団扇の作る風の文化を紹介してもらった。団扇とは自分のためだけにあるものではなく、相手をあおぎ「風を送ってあげる」ためでもあると語ってくれた。そのような考え方ひとつひとつが日本の文化であり広さであると思った。広く美しい世界はどこか遠くの憧れの世界であるとは限らず、すぐ僕たちの目の前にある身近な世界にあるのかもしれない。せまいスタジオの中で話し手と僕とで、仮想の広く美しい「まちなみ」をデザインしている瞬間が楽しかった。