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2月に大阪「堂島北新地」一帯で行われる『堂島薬師堂節分 お水汲み祭り』に総合デザインのアドバイザーとして加わることになった。この祭りは前年の3月に当地で“春を呼ぶ祭り”として始められた『お水汲み祭り』のさらなる発展版である。『お水汲み祭り』に『節分祭』というもともと北新地で行われていた伝統行事が結びついて名前も『節分お水汲み祭り』と改名、節分の日(2月3日)に行われることになった。この「難波の守護神」とまで言われた「堂島薬師堂」の歴史は古く遣随使や遣唐使の時代にまでさかのぼる。大阪がアジア交易の玄関港であった頃海の道標として「堂島薬師堂」はすでにこの地にあったという。かつて聖徳太子による四天王寺創建の際、その建築用材を積んだ船が沖合いで難破、ようやくこの中州に流れ着きその地にお堂を建てて薬師さんをおまつりしたのが始まりだと言われている。堂島という地名はこの「お堂のある島」から由来している。アシがうっそうと茂り水鳥が群れになって飛んで行く静かな河口の風景が目に浮かぶようだが、その後大阪には多くの掘り割りが発達、舟運も栄え全国からの産物がこの水路を通って運ばれた。元禄時代には米取り引き所が出来、その「堂島の米相場」は日本近世経済の礎を築いたと言われている。曾根崎川、堂島川にはさまれたこの堂島、中之島一帯には各藩の蔵屋敷も軒を並べ、曾根崎川北岸には花街も誕生した。これが高級歓楽街「北の新地」の前身である。この曾根崎花街からは北摂の山々が遠望でき、川の両側に建ち並ぶお茶屋の灯が川面に揺れ夏には行き交う涼舟が華やかに興を添えたとある。三味線や謡曲の音もきっと風にのって聴こえたであろう。近松のお初徳兵衛『曾根崎心中』、小春治兵衛『心中天の網島』の舞台でもあり、まさに「水の都大阪」を象徴するような情緒豊かな「まちなみ」が作り出されていたのである。しかし現在の大阪にはそのような風情ある「水の都」の面影はまったく残されていない。川の多くは埋められ、残った川にも高速道路の橋脚がおおいかぶさってしまった。『お水汲み祭り』の発願はこのようなかつての「水の都」の風景を再生させ、同時に大阪の文化経済も甦らせたいという地元の人々の切なる願いから生まれたものであった。 そのようなわけで僕の絵も『水都・大阪再生』というスケール大きな計画案を描くことから始まったのだが、次第に具体的な形に細分化されていき祭おこしのための「発願書」から「竹筒護符」「ハッピ」や「のぼり旗」のデザイン、最後は「水掛け弁才天」の彫刻までと今まで考えたこともないような神様的な形にまで広げられつつあった。とくにこの年の正月元旦は「竹筒護符」のデザインという“おめでたい”仕事で幕を開けたわけで、実に清々しい年の始めであった。しかしこの竹筒のイメージ作りというタイミングが正月頃でつくづく良かったと思う。なぜならもともと初詣でやおみくじを引いたりお守りをもらったりする季節なのでそれに関する話や写真は山のように出版物に載っていて参考になったし、実際に材料に使った色とりどりの水引きや松飾りも町中いたるところで売られていて助かった。また僕の仕事場が京都という、そのような縁起物には事欠かない町であったのも幸いしたと思っている。 デザインとはコピーではなくまず原点を把握することから始まるのかもしれない。方法やプロセスがわかってくればようやく応用が可能となる。まずなにを包むか。僕は「薬師堂のお札」とそれに「松と梅」「柄杓」という水や春やめでたさに関するものをそれぞれに合わせて包むことにした。それを「竹の筒」に添えて全体を構成する。赤い紙や白い紙をいろいろな形に切ったり折ったり、松の緑や梅の花の薄紅色のついた枝を生け花のようにアレンジしたり。新年の明るい朝の光の入るテーブルの上には、松や竹の緑と梅の枝に色とりどりの紙や金や銀の水引きの糸が散乱し、見た目も艶やかでめでたくなっていった。
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