「まちなみ」を旅する。

8.カーニバルに彩られる「まちなみ」。

               『まちなみ』2004年8月号 大阪建築士事務所協会発行 


  横浜の野毛という下町に『ボテキン』(ブラジル語で小さな一杯飲み屋の意味)という飲み屋があった。年中お祭り騒ぎのような店で、人も音楽もなにもかもがいつも道にはみ出していた。ガラス張りのきれいなドアがあるにもかかわらず、どんなに暑い日でも寒い日でもそのドアを閉めようと言い出す者はいなかった。最初から内と外を仕切る壁がないようなものだった。季節はいつも夏。遅くまで(東の空が白々とするまで)サンバの音が店から溢れて、その音につられるようにして客も店の外にさまよい出てハマの一角に熱い「まちなみ」を作っていた。 はじめてこの店に入った時、カウンターに背を向けてひとりブラジル料理「フェイジョアーダ」のためにマメを煮ていたのがマスターの国安さんだった。壁いっぱいに鮮やかな黄色とグリーンのブラジル国旗や、サッカーチームの旗が飾ってあり一目でブラジルひいきの店であることが判った。ブラジルで買って帰った楽器の話などをしながら少しづつこの無口なマスターと心を開き合うようになった。

 僕がサンパウロの楽器店で手に入れたというのは「クイーカ」という楽器だった。ジャングルの中で極楽鳥かなにかがけたたましく鳴くような音で、リズムの合の手となって気分を盛り上げる、歌い踊るようにして鳴らす楽器だ。サンバには欠かせない楽器だった。しかしまだその時はその不思議な構造(太鼓の胴の一面にだけ皮が貼られ、その皮に串が1本結びつけてある。)に引かれて買っただけでどんな鳴らし方をするのかさえ知らなかった。サンバに使われる太鼓はいろいろな大きさがあるけれど、どれも胴はステンレス性でピカピカしていてそれが見上げるばかりの楽器店の壁いっぱいに床から天井まで何百種類も掛けてあった風景はよく覚えていた。ブラジルの酒「ピンガ」を口に運びながら、次の日曜日に近くの倉庫でサンバ・チームの練習があるとのこと。参加すればきっと誰かが「クイーカ」の使い方も教えてくれるんじゃないかと言う。オカッパ頭に全体がポッチャリとして『ボテキン』という名前にぴったりのこの南米産そのもののようなマスターの誘いに乗ってみるのも悪くないと思った。

 野毛の小さな路地を探し探し、ようやく見つけた倉庫というより物置き小屋の中はすでに鐘や太鼓一色に染まっていた。揃って曲を演奏しているのかというとそうでもなく、曲名もなければ楽譜もないようで、皆んな好き勝手に自分の楽器を鳴らしているだけの様子だった。誰が指揮を取るでもないこの無秩序さ。こんな無造作なサークルは見たことがなかった。最後まで結局のところ「クイーカ」の使い方を知っている者を見つけることもできなかった。 サンバチームは、ほとんどが打楽器で構成されている。簡単に言うと大きく鼓動を打つようなドスンドスンという大太鼓(スルドにヘピニキ)の音と、小太鼓(カイシャやタンボリン)の音に、心を浮き立たせるきらびやかな鐘の音(アゴゴやショカーリョ)とクイーカの叫ぶような音が華やかに入り混じって音の大カクテルが始まる。実際にはこれに全体を率いるようにして歌いあげる歌い手の唄と、彼の弾く小型ギター(カバキーニョ)の音、全員が唱和するようにして歌い踊る色鮮やかな踊り手の合唱が入る。歌い手も踊り手も楽団も全員がおそろいの羽飾りとキラキラ衣装を付け、空に突き上げるようにして歌い踊る。グルグル舞い踊るようにして観客達に歌いかける。熱いこころと肉体の喜びそのものがサンバだ。それが大きな道路いっぱいを埋めるようにして自分達チームの音楽性や表現力、芸術性を披露するようにして行進していく。このようなチームが次から次と登場し、全体がお祭り一色に染まるのがサンバ・カーニバルだ。有名な「リオのカーニバル」は毎年2月の謝肉祭(カーニバルとは謝肉祭の意味を持つ)の4日間に行われる。この期間中はリオだけでなくブラジル各地、トリニダード・トバコ、コロンビア、中南米いたるところでカーニバルが行われ、一定のリズムが刻まれながら宇宙に発信されていくことになる。

  この横浜のサンバチーム『エスコーラ・ヂ・サンバ・サウーヂ』の目指しているのは、3ヶ月後に予定されている「浅草サンバ・カーニバル」だった。毎年8月の最後の土曜日に行われる日本で最大のサンバ・カーニバルだ。そのパレードのコンテストに出場し上位に入るのがチームの目標だった。あの無秩序さでそんなことが可能とはとても思えなかったが、時おり練習をし、時おり『ボテキン』に集まっては道にはみ出し、サンバの暑い風に吹かれつつ港町の夏がようやく過ぎようとする頃カーニバルの当日がやって来た。僕の「クイーカ」はあいかわらず自己流のままだった。 パレードは「浅草観音堂」の二天門からスタートし、広い馬道通りを行進、審査会場のある雷門通りを通る。ここで演奏の音楽性や振りや衣装のユニークさや出車の華やかさなどで採点が行われるのであった。まず控えとして用意されていた公民館に集まり、そこで皆そろいの衣装に着替える。衣装はそれぞれ手作りだ。チームの一人がデザインを考え、それに沿った型紙や材料が前もってメンバーに配られていた。針や糸に慣れないまま、それを縫うのに幾晩もかかった。お互いに照れ笑いをしながら自分の衣装に着替え、最後に好き勝手に銀ラメなどでメイクをしている頃、ようやく一人遅れて『ボテキン』のマスターが駆け付けた。見るとまだ布の縫い付けも裁断もしていない。時間も迫っているのにどうするのだろうと見ていると、やおら大きなハサミでザクザクと布を切ったかと思うと、それをなんとホッチキスでバチバチッと止め始めたのだった。後で僕自身にも良く分かったことであったがブラジルに長く暮らしたマスターにとってそれが「ブラジル流」だった。「ブラジル流」がサンバには欠かせない心の持ち方であり、音の調子だった。大らかで気楽で自由で、音と身体が一体になった感覚。それは日本人特有の細かさや回りへの気使いとは正反対の感覚だった。細かいことに気を使うな。その日その時間を精一杯楽しむこと。それが「サンバ流」であり「ブラジル流」であった。マスターの衣装はそれで充分だったのだ。

 「浅草観音堂」の二天門前に集合し、僕たちのチームが動き出すまでには随分と時間がかかった。間隔を開けて前のチームが順々にスタートして行くあいだも皆歌って踊った。せっかくの審査会場に着くまでに疲れてしまうのではないかと心配する者もいたけれど、身体が勝手に動くのだった。あの倉庫での無秩序さがウソのように皆整然と、音と身体とが一緒になり、全体が一つになっていた。小さな「日本流」から脱して「ブラジル流」の大きな秩序に移行していたのかもしれないと思う。リズムが走り過ぎるとマスターが大きな声で「速いぞ、押さえて!」と叫んだ。熱気と真剣さが頂点に達していた。馬道通りから審査会場のある雷門通りに出ると、そこには巨大なサンバのための「まちなみ」が出来上がっていた。何段も高く作られたひな壇にビッシリと人。眩しいほどのライトが煌々と当たり、沿道には無数の人垣がこちらに注視していた。テレビカメラも回っていた。すごいかっこうのチームの女の子達は一斉にカメラのフラッシュを浴びた。「笑い続けて!」誰かが叫んだ。太鼓隊は港町のチームらしく勢いのいい大きな音をそろって鳴らし続けた。僕は自己流の「クイーカ」を太鼓のように鳴らしながらあっちに行きこっちに行き、グルグル舞い踊るようにして観客達に歌いかけ続けた。ア然とした表情で道路脇に座っているお婆さんたちにも歌いかけた。見上げると空は真っ青だった。50近いチームの中で僕達は4位に入った。