「まちなみ」を旅する。

『まちなみ』2004年7月号 大阪建築士事務所協会発行
7. まちなみを走る。      

―― サンフランシスコ・マラソンの「まちなみ」。2000年 S.F.マラソン 写真ギャラリー

                


 マラソンは「まちなみ」を楽しむスポーツだ。同じ陸上競技でも、競技場のトラックでタイムを競い合う他の種目とはその点が少しちがうように思う。テレビで見ていても僕は背景の町や通りに注目することが多い。高橋尚子が世界記録を出したベルリン・マラソンでは颯爽と風に乗って走る彼女の姿の後ろを流れる欧州の深い街路樹の緑が美しかった。選手にとっても緑の深いコースは酸素が多くて走りやすいという。やはりマラソンは「まちなみ」を感じながら「まちなみ」と一緒になって走ることだ。

 大阪にオリンピックの誘致活動に関わった委員の一人と話す機会があった。誘致の際の活動に、競技の背景となる大阪の景観や文化にもっと目を向けた視点があれば、もう少し賛同を得ることが出来たのではないかということを話し合った。もちろん交通手段や施設の充実など機能面を訴える必要もあった。しかし世界が見守るのはオリンピックの舞台となる開催地の「まちなみ」の自然や文化である。大阪の町はどの点に美しさがあるのか。どの点景を連続させればもっと魅力的な町になるか。マラソン・コースを見るように、多角的な「まちなみ」作りの観点があればもう少し展開も変わったのではないかと思う。

  21世紀を前にした西暦2000年を記念して、初めてのマラソンに挑戦してみることにした。フル・マラソン。42.195kmだ。休日に10キロぐらいは走っている。アフリカの山に登ろうと思ったことがありそのための準備に走り始めたのがきっかけだった。最近は近くの自然公園の滝までの道を1時間ほどで往復する。渓谷に沿った深いモミジの樹々に包まれた山道。初夏には透き通るような緑が美しい。冬には細かく枝に付いた霜が朝日にキラキラ輝くように舞い落ちて来る。僕にとって走ることは、移りゆく風景を楽しむことである。しかし42.195kmという距離にも興味があった。今まで自分にはありえないと思ってきた距離だ。しかし本当にそうなのだろうか。いつもの素人発想で確かめてみたい。舞台はサンフランシスコ。この町をぐるりと回って見てみる。途中で行き倒れて死んでもこの町なら文句はなかった。エントリーの仮登録をするとすぐにコースの説明パンフレットと大会ロゴをプリントしたカラフルなTシャツが送られてきた。次のような言葉が添えてあった。――「走ることを通して、この町の風光明媚な景色や音や匂いまで感じてください。サンフランシスコはそれができる世界でもっとも美しい町です。それを心から愛する人々が住んでいる町でもあります。」

  ――7月9日朝 6:50 サンフランシスコ。『ゴールデンゲート・パーク』のスタート地点。公園の中はまだひんやりとしてうす暗い。風船を集めて半円形の大きなゲートが作られていて両サイドに大会のテントが並ぶ。ここから出て、ここに帰って来る。すでに数え切れないほどのランナーが周辺を軽く走りながら思い思いのスタイルで準備運動を始めていた。僕自身のスタート地点は先頭から300mほど後ろに下がったところ。数字の記されたプラカードが沿道に立っていて、各自1時間あたりおよそ何マイル走るかを自己判定してそのプラカードの辺りに並ぶことになっている。速い記録を持ったランナー達はもちろん先頭附近。さすがに精悍なランナーがずらりと並んでいる。全く世界が違う。後ろに下がるにつれて少しづつリラックスしたムードになりマラソンというより「祭り」を楽しもうとしている人達になる。

 7:03 時計を見るとスタート予定の午前7時を何分か過ぎている。タイムを測ってくれるためのチップは言われたとおり靴に付けた。ゼッケンも持った。3日前に来て実際のエントリーを済ませコースも確かめておいた。しかし何かやり残していることがあるような気がしてならない。それがなになのかを確かめようとしている間に、はるか前方で唸るようなどよめきが聞こえる。いったい何の音だろう。耳を澄ませる間もなくそのどよめきが津波のように押し寄せて来て、押し上げられるようにして周りの人達とひとつ一体となって声を上げながら走り始めていた。上空からヘリコプターで見ていたとすると何千という巨大な白い群れが公園の中を移動して行き、その中に僕もひとつの点となっていたのだろうと思う。ゆるやかにカーブした公園の小道を抜けて住宅街に出る。家の二階の窓から応援の旗。「チアーアップ!」、垣根越しの拍手と声援。マラソンの面白さは第一に、この一体感であると解る。

 7:30 手に手に飲みものを持って ボランティアが待機してくれている最初の「ドリンク・サービス」を通過。道路が水で光り、すでに無数の紙コップが散乱している。その上をバシャバシャ音を立てて走る。8:00 大きな邸宅の並ぶ美しい街路樹の通りから山への坂道を登る。清々しい松の香り。枝の間から海が見える。ひんやりとした涼しい風が頬をなぜる。山道はゆっくり下りはじめる。身障者のホイールカーがサーッと滑るように横を駆け抜けて行く。『海洋博物館』のこじんまりとした小さな建物が眼下に見える。淡いエメラルド色をした静まりかえったサンフランシスコ湾。少し離れたところに『アルカトラス島』が見える。まるで時間が止まったかのような光景だ。

 8:30 ヨットハーバーに並ぶ無数の帆柱を眺めながら、やがて蟹や海老の臭いのする市場『フィッシャマンズ・ワーフ』の横を走る。毎日観光客の多いところだが、今は人影もまばら。ここで15km通過。すでにいつもの距離を越えている。9:00 『ピア7』、『ピア5』と順番に番号のついた埠頭を過ぎて行く。日ざしも 次第に強くなっていく。対岸の町オークランドに渡る大きな橋『ベイ・ブリッジ』の下をくぐる。橋の下だけは影になって涼しく心地よい。やがてレンガの倉庫群。高層ビルを右手に、ジャイアンツのホーム球場『パシフィック・ベル・パーク』横を通る。小さな町工場の並ぶ一帯。印刷インクの匂い。乾いた無人の街に応援もなくひたすら黙々と走る。道の片側に立ったボランティアが大きな声で距離を読む。「12マイル通過!」。

 9:30 南国的な雰囲気の『ミッション通り』。特徴ある大きな椰子の樹が影を落としている。エスニックな香りが漂う。美味しそうなピザの匂いもする。10:00 急な坂道『ヘイト通り』を一気に駆け上がっていく。前方、巨大な壁のように見える坂にへばりつくようにしてゆっくり移動していくランナー。白や赤や青の無数の点が上へ上へと押し上がって行くように見える。両サイドから「チアーアップ!」「ナイスラン!」の黄色い声援と拍手。声援に後押しされるようにして深く大きく三段になった坂を登り切る。「ここまで来たのだからもう十分だ。」というささやき声が聞こえてくる。「とにかく公園までは走ろう。」と自分に言い聞かせる。遠く前方に『ゴールデンゲートパーク』の緑が見える。これでほぼ市内を一周した。

 10:10 公園の中を真直ぐ走る『ケネディー通り』。左右に広がる芝生。応援のギターバンドの演奏。遠く芝生の上で遊ぶ人々。追い抜いていく自転車。ビーチバレー。草の香り。広々とした景観の中にいると、走る速度が急に遅くなったような気がする。周りの風景が遠すぎてなかなか景色が後ろに去ってくれない。10:30 飲み物サービスの「ビール、ビール!」の声。ここで小さなアルミホイルの袋をひとつ受け取る。協賛の飲料メーカーが提供しているスポーツ食品なのだろうか。慣れないものを食べて体調を崩さないようにと思っていたが、あまりの単調さから封を切って口に含んでみる。甘い、美味しい。ゼリーだ。何度も吸い込むようにして口に入れる。甘さはエネルギーそのもの。次のサービスでももらえるだろうか、気になる。

 11:00 5kmも続く長い公園をようやく抜ける。ここから一旦公園を出て海に向かうことになる。離れたところで歓声が聞こえる。速いランナーはすでに海のコースから帰って来て、別の道をゴールに向いつつあるようだ。「あっちの道に移りたい」と隣のランナーと真顔で声をかけ合う。あと残り10kmほど。海岸に沿った長い道に入る手前に、最後の飲み物サービスが見える。ゼリーを目で探すが見当たらない。がっかりする。がっかりした瞬間、思わず足が止まってしまう。途端、驚いたことに周りの風景が大きく上下しはじめる。目だけが上に下に動き続けている感じで、足元がふらつく。しかも身体中の筋肉も、あっと言う間もなく硬直しはじめる。止まったことで身体が勝手に終った、と解釈するようだった。「まだ終っていないぞ。」固まりそうになった足を一歩、二歩と前に移動させながら目を上げると、先には灰色のコンクリートの壁が延々とはるか彼方まで続いている。美しいサンフランシスコの「まちなみ」のはずが、最後に恐ろしいほどの単調な「まちなみ」が用意されていた。想像もできないような変化のない風景。信号灯を一つ越えると次の信号灯が見えるだけ。変化といえば遠くに見えた信号灯がすこしづつ近づいて来るということだけだった。早く海が見たい。

 11:30 永遠に続くかのように思われた長い壁の道が終わり、やがて大きくトンネルを潜って折り返し。帰りは海側の道。ようやく期待していた雄大な海の風景だ。しかし外に出るとそこもまた音も光もない混沌たる灰色の世界だった。暗い霧に包まれてまるで最果ての地に来たようだった。遠く砂丘の向こう波打ち際だけがぼんやり白く光って見える。あとは冬枯れたような道をひたすら前へ。走っては止り、止まっては走る。同じように倒れるように前を行くランナーをひとり抜いては、また抜かれるをくり返す。まるで死の行軍だ。このまま冷たい砂浜にごろりと横になったらどんなに心地よいだろうと思い続ける。

 12:00 気が付くと『ゴールデンゲートパーク』の緑の世界に戻っている。森の空気。深い緑。生き返った。気の遠くなりそうな海のコースからようやく帰還したのだ。広い公園はどこもお祭り騒ぎのように賑やかで華やか。すでに肩からブランケットを羽織ったランナーがあちらこちらで体を休めている。芝生の木陰で昼寝をしている者もいる。最後の力を振り絞る。5時間も前に通り抜けた大きなゲートがようやく少しづつ近づいて来る。「Nobuhiro ―、Nakazaki―」のアナウンスが遠くで聞こえる。前を行くペアを一組抜いてゆっくりゴールを駆けた。12:25:34 やっと終った。