「まちなみ」を旅する。

1. 心のおもむくままに。

『まちなみ』2004年1月号 大阪建築士事務所協会発行 


  「まちなみ」とは、どこか「皆んな」という思いと共通している。
あるいは「皆んなと一緒」という思いか。
明るい通りに沿って軒の瓦が並ぶ子供の頃。
晴れ着に着替えて記念写真を撮ろうということになって表に出ると、明るい日ざしの中で日の丸の旗が晴れやかに立って、それがあっちの家もこっちの家も、通りに沿ってずーっと遠くまで点々と並んでいた正月の朝。
 いつもと同じ通りなのに、全くちがうところのように思えて浮き浮きする気持ちを押さえきれなかった。
まるで犬のように、そこら辺りをキャッキャと駆け回った。
あれはきっと子供心に、皆んなと一緒ということがまずなにより嬉しかったからにちがいない。父も母も弟も近所の叔父さんも叔母さんも、犬も猫も皆んな一緒だった。それが嬉しかった。
「まちなみ」とは皆んなであり「皆んなと一緒」の感覚だ。幸福感だ。

 ロスアンゼルスの街を車で案内してもらったことがあった。
ビューイックだったかリンカーンだったか、大きなアメリカ車だった。
フロントグラスいっぱいに、ゆっくりと映って過ぎていく町並みが美しかった。
ハンドルを切ってビルの角を大きく曲がるたびに、景色が右から左へ、左から右へとゆっくりと移っていく。流れるスピードがほとんど変わらない。
これこそ車文化の中で熟達した大人のドライビングかと思った。
広い車内は涼しく快適でスローなジャズが流れ、町の風景はまるで画面に映し出された映画のようだった。

 しかし快適に見えた町並みも、外の世界と完全に切り離された世界であり、車の内にいることでようやく存在していたことは、外に出て自分で歩き出した途端にいやでも知ることになった。
目の前に見えていたビルが遠い。むちゃくちゃ遠い。
辻から辻までが長い。歩いても歩いても次のブロックに渡れない。
彷徨しながら、焦躁感で汗が吹き出した。

 ロスアンゼルスには、ふたつの「まちなみ」が存在している。
音の無い音楽のように美しく無言で通り過ぎていく「まちなみ」と、一方で灼熱の砂漠に巨大な廃虚の出口を求めて彷徨する悪夢のような「まちなみ」。
そのどちらもが「ロスのまち」である。

 歩くことが好きな僕は、毎日自分の好きな「まちなみ」を求めて歩いている。
歩くというのは、風を頬で感じることだ。
朝、起きるとまず近所を歩き、夜も時間があればまた同じところを歩く。
「まちなみ」は一日中変化しているから飽きることがない。

 朝の「まちなみ」と、夜の「まちなみ」のちがいは匂いにあると思う。
人通りが絶え、暗がりに街灯だけが点っているような夜の「まちなみ」にも匂いだけは温かく賑やかだ。一日の人びとの営みが匂いとなって堆積している。
それが夜明け前には露となって消え落ち、また朝の「まちなみ」は全てが静かである。

 曲り角をいくつも折れて町を行くと、東西に800mほど真直ぐに続く桜の並木道に出る。これが僕の朝の散歩コースだ。
時々はちがう道も歩くべきだと思っても、この桜の並木道を外すわけにはいかない。
よほどこの桜の並木道の「まちなみ」が気に入っているということだが、どうもこの通り全線すべてを気に入っているわけではなさそうだ。いつも歩くのは、この半分だけだ。

 なぜ自然とそう決まったところを歩いているのかを調べるために、この約800m東から西までをゆっくり左右を見ながら歩いてみた。それではじめて気がついた。
最初の400mは「塀壁」に囲まれた家が多い。そして半分を過ぎたころからは「生け垣」の多い並びになる。
僕は自然に「生け垣」の多い通りを選んで歩いていた。

 「塀壁」の表面は固いが、「生け垣」には柔らかさがある。
「生け垣」の木の種類は、椿はサザンカや金木犀が多いのだろうか。
春から夏にかけては濃い陰りを作り、秋にはいい匂いを発する。
新芽が美しいと思っていたサンゴジュは、火にも強いらしい。
成城学園はこの「生け垣」をテーマに町の開発を進めていったという。

 何度も歩くうちに、僕は自然と自分を柔らかく受け入れてくれる道を無意識のうちに選んでいた。「まちなみ」とは、自分でも気付かない自然なる心の趣〈おもむき〉に沿っている。